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 春鶯は、諸葛亮がした「反骨の相」というものが、どんなものか知らない。
 他の将兵は仮面に多少おののきながらでも普通に交じらっているのに、諸葛亮だけがそこを気にしている理由もわからない。
<丞相の仰る魏将軍の「反骨の相」とは、私のような兵卒を常に置き、監視しなければならないほど危険なものなのでしょうか。
 申し上げることに無礼があることは承知です、魏将軍の「反骨」は、丞相お一人へのものでしょうか>
あるときそう言ったら、諸葛亮は例の底知れぬ深淵をちらつかせながら、
「そんな質問をするのは、あなたが初めてです」
と言い、それでも答えた。
「見えていることだけで納得していては、いずれ足元をすくわれるかもしれないと、私はそう思っているのです。
 魏延殿は、きっかけさえあれば、それがためらいなく出来る人物…私はそう思っています。
 あなたがかさねて私に言う彼の誠意、それも真です。魏延殿は純粋すぎるのですから。
 その純粋さが、蜀漢のために働けばよし、そうならないことを、私は心配しているのです」
国のため、といわれてしまっては、春鶯も返す言葉がない。とにかく、魏延が目を通した書簡を運ぶ仕事と報告は終わった。退出する春鶯を諸葛亮は呼びとめ、
「…魏延殿に、心動かされましたか」
と、探ってくるように言った。春鶯はその場にぽかん、と立つ。
「策をめぐらし、人物の裏表を見透かさねば始まらない私と違いますからね、魏延殿は。
 本当に純粋です。恐ろしいほどに。
 …意地悪と思ってもらっても構いませんが、もしかしたら、あなたの耳目に心地いい何かあったのかと思いましてね」
もうお帰りなさい。春鶯は今度こそ、いつになく丁寧な礼で部屋を出た。

 <心動かされましたか?>
策で世を渡ってきた諸葛亮がああいうのだ、もしかしたら本当に春鶯は、言われたとおりのことになっているのかもしれない。生い立ち話の返信の一文をまだしまっていたり、そもそも魏延を擁護するようなことを言ってしまったり、きっと諸葛亮には、おかしいほどに見え透いてしまっているのだろう。
 魏延の態度は、あくまでかわらない。変わらないが、春鶯に向けられている気配が、わずかに大きくなっているのはわかっている。筆を休め、二胡に聞き入っているときもある。
 信頼が少しはおかれたのかもしれない。それは、任務上結構なことである。このまま進んで、「反骨」の発動について相談を持ちかけられれば、上首尾と言うことになろうか。しかし、もしそれが、信頼ではなくて、別のもの…春鶯の中にうっすらと浮かんできたもの…だとしたら、任務は全うできないばかりか、春鶯はもうあの場所にはいられない。
 廊下の真ん中で、ぽつんと考えてしまっていると、
「春鶯? 春鶯じゃないの?」
そう声がした。

 仕事部屋に通され、今どうしているかと尋ねられ、任務のことを除いたざっとしたことを説明した春鶯に、
「そうね、あなたはよく気がつく子だから」
維紫はそう言った。
「それをわかって、軍師様が魏将軍のところにいくよう、計らってくれたのでしょうね。
 この間、魏将軍が突然あなたのことを尋ねにいらしたものだから、私も実はあなたに一度会いたかったの」
そう言う維紫の表情は、どこかに送り出した妹に出会えた姉のような滋味があった。
<事情があり、今どこにいるかを知られてはいけないと丞相よりの仰せで、連絡が出来ずに今になりました。
 維将軍もどうか、私の居所はお心のみにとどめておいてくださいまし>
しかし、うつむく春鶯の表情は笑んでいながらどこなく翳り、返答は意外なものだった。
「…ええ、わかりました」
簡を返しながら、維紫は腑に落ちない顔をする。そこに、別の女官が入ってくる。春鶯の耳は、空気のこすれるようにしか聞き取れない小声のやり取りをはっきりと聞いた。
『趙将軍が、ご退出をお待ちですが…』
『すぐ行くと伝えて』
そうして向き直り、
「ごめんなさい春鶯、もう行かなくてはならないみたい」
という維紫の顔には、明らかに、春鶯の無事を喜ぶ感情とは別のものがあった。
<二胡の音を頼りに、私の生死はお察しください>
「まあ、生死だなんて、そんな物騒な」
維紫はくす、とわらって、帰り支度をまとめて部屋を出てゆく。

 <維将軍は、私より大変だった。私は母様がいたけど、あの方は身一つで、まだ男だらけの軍に飛び込まれて…>
自分の部屋に戻り、二胡の手入れをしつつ、別れ際の維紫の顔を思い出してみる。
<おつらいこともあったのに、それを忘れさせるほどの方がいて、…お幸せなんだ>
将同士と言う信頼に加えて、かけがえのない人という情があり、それなのに、いやだからこそ、二本の「竜胆」は戦場で一層にきらめく。
<私は…どうなんだろう>
手入れを終え、二胡を袋にしまった手に、ぽつりと冷たい涙が落ちた。

 「春鶯」
魏延のいぶかしげな問いかけに、春鶯ははっ、と我に返った。傍目には、二胡をとったまま、微動だにせずにいたのだから、魏延ならずとも声の一つもかけたくなるものである。
「病…カ」
尋ねられて、おそらく熱でも確かめるためなのだろう、魏延の手が春鶯の顔に触れ、ぴく、と春鶯の体が震える。
「無理…悪イ」
魏延は、春鶯の身の高さほどに屈み、じ、と春鶯の顔を見た。
 純粋。諸葛亮は彼をそう言ったが、確かに、仮面の下から見える目は、真ん中に春鶯の影を移して、案じているまなざしをしていた。その視線から目をそらし、簡に
<大事はありません…>
と書きかけて、春鶯はかぶりをふった。違う、そんな強がりを言って否定できる
ほど、自分は強くない。
 違う簡を取り、
<将軍をお慕いするあまり、心が現を離れていたようです>
と書いた。魏延はそれを見る、言葉はない。
<お望みなら、身をお任せしたいとも思っていました>
引き続いて、そうとも書く。
「正気…カ」
魏延が言う。春鶯は頷く。彼はサラの簡を一本とり、
<お前はもう妓女ではないのだ。今の言葉は聞かなかったことにする>
そう返して、きびすを返そうとする。その袖を、春鶯が握っていた。
「…離セ」
その言葉を、春鶯は全身で拒否する。駄々をこねる子をなだめるように身をかがめると、すがりつき、離れない。魏延は、春鶯の頭をひとなでし、抱き上げ、椅子に戻す。
<今は戻って休むべきと思う。覚悟あらば、改めて夜訪れよ>
走り書くように書付け、春鶯に見せると、彼女はそれをじっと見て、こくりと頷いた。

 春鶯を水揚げしたのは、妓楼の主人だった。しかし、言葉のない春鶯にとって、言葉でその場の雰囲気を盛り上げ、客を一時の有頂天にいざなうという側面から見たら、言葉のない春鶯は妓女として不完全な代物だった。
 指名されても、月の物と偽って口や手を使わせたり、「春鶯に声を上げさせたら花代(妓女を買う代金)帳消し!」などと弄ばれても、何の情動もおきなかった。
 しかし、今のほんの少しの接触で、春鶯は体が熱に浮かされたように熱いままだ。戻って身が休まるはずもなく、ただ夜になるのを待って、改めて戻る。
 魏延は、まだ仕事を続けているようだった。しかし、春鶯の気配を感じたのか、その手を止める。
「覚悟…変ワラヌ…カ」
その問いに、春鶯は頷いた。

 仮眠に使う牀に春鶯を誘い入れ、帳を全部おろしてしまうと、中にはほとんど光が入らない。そのわずかな光に反応して、ほの白く見える女官衣の春鶯は、手繰られるように抱き寄せられた。
 満ち足りたような一息のあと、
「我ノ…春鶯…」
確かに、そう聞こえた。春鶯の胸が跳ねる。今の言葉はどういうことか、尋ね返しかったが、それが出来ない。しかし、答え以上のものが追いかけるようにやってくる。
「離サヌ」
身じろぐほどに魏延の腕は強くなってくる。息ができない。
「ぅぅ…」
春鶯がうめいた。とたん、手が緩まり、
「オ前ノ…声?」
そう尋ねられる。反射的に出たが、確かに、自分の声に違いない。春鶯は魏延の手を顔に当て、頷く。
「聞カセロ…モット…」
すでに春鶯の衣の類はすべて剥ぎ取られ、二人とも一糸もまとわぬ姿になっていた。
 噛み付くような接吻。
「んふ…」
乱暴な客はこれまでないでもなかった。春鶯はそれを受け入れる。違うのは、さめていたあの頃と比べて、体が異様に熱いことだけ。
 唇をからめながら、春鶯の手は下におりて、魏延に触れる。すでに猛っていた。握ろうとすると、その手がつかまれ、牀にばた、と押し付けられる。
「何モ…スルナ」
本当に言いたいことをすべて省略された言葉。しかし春鶯は、「妓女であったことをすべて忘れろ」と受け取った。

 真剣に受け止める愛撫は、春鶯を芯から溶かした。
「ふぅ…ふぅ…」
うまく声が出せないのを、息の荒さにかえる。魏延がするあしらいはまるで獣が獲物にかじりつくような激しさがあったが、春鶯の体に傷がつくようなことはなかった。
 指を差し入れられ、
「!」
春鶯の体はぴく、と震える。濡れほころびた中は押し包むように迎える。長いこと男に触れられたことのないその部分は、指の抜き差しに敏感に反応した。
「…ぁぁ」
春鶯の出す息はほとんど叫びに近かったが、喉はかすかに震えるだけだ。
「…声」
魏延がポツリと呟く。あの声をまた導こうというのか、指が執拗に春鶯を責める。


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