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春鶯囀 城の東の一角は、将兵が住まい、或いは政務を執る場所である。武将といってもしょっちゅう戦があるわけでもなし、平時は主に兼官している文官の仕事に従事している。 その一帯に、いたわるように、二胡の音が流れる。もう少しで書簡の目通しも終わる、今夜は煩わされれずゆっくり眠れるだろう、そんなことを思っていた維紫がふと顔を上げた。 「あら、春鶯」 「え?」 そばの副官がきょとん、とする。 「…春鶯の二胡よ。元気なのね」 維紫はそう呟いて、また書簡に目を落とした。 春鶯は、維紫の隊で卒伯まで勤めた兵士であったが、彼女の部隊はなかった。斥侯や伝令・報告の任を勤めていて、彼女の優秀なところは維紫どころか、丞相・諸葛亮も認めていた。 その諸葛亮が維紫を呼び出して、 「あなたのところにいる春鶯と言う兵士がいたはずです」 と言い、 「よんどころなくして、彼女の力を借りたいのです、私に預けていただけますか」 丞相が言うのだからきっと春鶯の能力が求められているのだろうと維紫はそれを承諾し、春鶯は諸葛亮に預けられた。 二三日、居場所もわからなかった春鶯が、この城のどこかで二胡を弾いている。危ない任務には就いていないのだろう。維紫はとりあえず、そのところは安心した。 二胡の音をたどってゆくと、とある将軍の部屋にたどり着く。処遇は決して悪くない、寧ろいいほうにはいるようだが、部屋の中には必要最低限のものしかなく、質素を通り越して実に殺風景だった。 窓際に一つ椅子があり、春鶯はそこにちょこん、と座り、二胡を奏でている。この部屋でまだ政務の書簡に目を通している将軍の邪魔をしないように、細く、おだやかに。 だから、将軍が筆をおいたわずかな物音にも、彼女は敏感に反応し、二胡をとめる。 「…頼ム」 将軍はそう言った。寡黙と言う言葉があるが、この将軍は本当に寡黙で、時々意を汲まないとならないような話し口であったが、春鶯はその意をほとんど的確に汲んでいた。帰り支度をはじめ、出てゆく将軍を拱手して見送り、そして春鶯はふう、とため息をついた。 春鶯は、まとめられた書簡の一つを開く。将軍は、口は確かに立たないが、その筆は寧ろ雄弁であり、流麗で、誇り高さを感じた。 <…こんな文を書ける方が…> 春鶯はそう思った。書類を巻きなおし、その束を、乗せられている盤ごと持ち上げた この書簡を、諸葛亮の元に持ってゆく仕事が、何より彼女の仕事だったからである。 丞相の執務室で、諸葛亮がその書簡を改める間、春鶯は隅でじっと動かずにいる。 丞相が、この将軍にいささか不信を抱いていたのも知っているし、将軍がそれに戸惑っているのも、この何日か仕えただけで春鶯にはすぐ察された。 「春鶯」 目を通し終えた諸葛亮が、書簡をすべて担当の官吏に預けて、改めて春鶯を呼ぶ。前に来て拱手する彼女に、サラの書簡と筆記具を渡しながら、 「今日の魏延殿には、何かありましたか。不審な書簡とか、不審な来客とか」 尋ねられ、春鶯は反射的にかぶりをふる。そして、渡された書簡に、こう書いた。 <書簡をご覧の通り、魏将軍は、丞相に対して、お持ちの分の誠心誠意をもってこたえようとされております。 不肖ながら私には、まだ、丞相の仰るような不審な点を見つけることにはいたっていません> その書簡を見つつ、 「反骨の相は確かにあるのですが…殿といい、諸将もそのことには気にされていないご様子。私の早とちりでしょうか」 諸葛亮は自分の予測が周りとあまりに違うという苛立ちの隠せない調子で言った。春鶯は、それを黙って聞く。 「引き続き、魏延殿のそばで、異変がないか監視をお続けなさい。あの反骨の相が発動するような兆しがあったら、誰よりも早く、私に報告するのです。 頼みましたよ」 拱手し、退室して行く春鶯に、諸葛亮が確認するように言った。 最初、春鶯が待たれ、その任務が告げられたとき、彼女は柔和な丞相の影に、何か底知れぬ深淵のようなものを見た。 「それとなく、何人か様子を見させましたが、これといって異状なしという報告ばかりで… 勘の鋭いあなたなら或いはと思い頼むのです。よろしくお願いしますよ」 春鶯の返答は、諾、という選択肢しかなかった。 観相のことなどわからない周囲からは、丞相がとにかく嫌っているらしいという理由だけで、誰も魏延の近くにいたいと思っているようでもなかった。 だから、春鶯が来たというだけで、魏延は仮面の下で、わずかだがはっきり 相好を崩し、 「世話ヲ…カケル」 と言ったときには、春鶯はきょとん、としたのだ。 魏延は、二三人より大きく違っていることを除けば、全く普通の人間だった。その一つは寡黙で簡潔な言葉でしか会話をしないこと、そしてもう一つは、その仮面。 獣らしい雰囲気を漂わせる戦装束にならまだ似合いもしようが、魏延の仮面はいついかなるときも外れない。戦を外れた文官の姿であってもそれは変わりなく、見たものを確実に一回はすくませ、嫌が応にも出会うものの目と記憶に残るのではないかと思わせた。 なににかの理由が、それをはずさせないのだろう。しかし、春鶯はそれを尋ねなかった。まれに仕事上の来客があって、仮面の話になると、魏延の気配がわずかに変わる。だから、春鶯はその話をしようとしない。 魏延が今のところ、春鶯をあからさまに嫌がっているようでもないのは、そういう古傷をつつかない所もあるからなのだろう。 春鶯は生い立ちがら目と耳が働き、またカンも鋭い。今までの生活から得た出張らない態度も、女官としては上出来の部類に入る。ただひとつ、春鶯の惜しいところを上げるとすれば、「彼女は言葉を全く使わない」と言うことだった。彼女を育てた維紫も、諸葛亮も、魏延も、春鶯の口から言葉という物が出るのを聞いたことがない。 肯定、否定、未知など、仕草で答えられるものに関しては仕草で答えるが、それ以上複雑な質問や会話には、書簡が用いられる。だから、魏延の部屋にも彼女専用の筆記具があり、春鶯本人も、常時携帯できる筆記具とサラの竹簡を持ち歩いている。 ある時、よほど魏延は不思議に思ったのだろう、 「オ前…何故…話サヌ」 そう尋ねた。いずれこの質問は来るだろうとは思っていた。しかし、あえて話すと相手の心を開かせることがあるというのも、職分柄わかっている。そして、この寡黙な将軍なら、本当の話をしても漏れることはないだろうと、春鶯は確信していた。 <お耳汚しな生い立ち話となりますがよろしいですか?> あらかじめ尋ねると、魏延はしばらく考え、 「…構ワヌ」 と言った。 春鶯がここまで来た話は長い。 まず彼女が生まれる前、立て続けに数人ほど女児ばかり生まれたことが彼女の人生を決めた。 父は新しく妻を求め、今度こそと跡取りを希望し、そこに春鶯は生まれたのだ。父は天地父祖を恨み、生まれて間もない娘の首に手を掛けた。正妻、春鶯の母、年長の姉達がそれを引き離し、春鶯は生きることは許されたが、引き換えに声を失った。 それが印象深かったのだろう、実母・正妻・姉達から春鶯はかわいがられた。意思の疎通が出来るように字を教えられ、二胡の技も授けられた。 しかし戦乱の世はままならず、春鶯の家に、斜陽がささることになる。 娘達を嫁がせ、親戚うちから継嗣を養子として得た父は、あっさりと、春鶯とその母を捨てた。 母娘は取り残され、日々の糧を得るために喘いだ。母は他家の下使いとして働き、立志の年もむかえていなかった春鶯は、妓楼で二胡弾きとして雇われた。 しかし、妓楼といえば金次第でどうにもなるもの、あの二胡弾きが良いといわれれば、従わねばならなかったのも、また現実であった。 春鶯の生い立ち話は、何本もの書簡になっていた。 <母は私がそんなことで日銭を稼ぐことを嫌っていました。だから、その町が戦に巻き込まれたとき、妓楼を抜け、兵となれと> 魏延がそこまで読んで 「維紫…カ」 と言った。春鶯は筆の手を止めて頷く。 直接維紫のそばに来て、兵に取り立ててくれと嘆願したのだ。維紫はしばらくの相談のあと、それを受け入れ、春鶯は伝令兵として、戦場を走る生活に入った。 報告や伝令は口述されたものを記憶した。敵に捕らわれ責められても、密書の類など出るはずもなく、また、口述で記憶させられた内容を話せといっても、 言葉がない春鶯には不可能であり、皮肉だが、情報を預かる兵として頼られることになった。 <維将軍は、私のいきなりの頼みも聞き入れてくださって、また兵として身を守れる最低限の武術も教えてくださいました。 維将軍ほどの知勇も、美しさも私は持っていません。でも、私の持っているすべてでこれからの蜀のお役に立てればと、思っています> 魏延はしばらく考えていたようだった。そして、 「簡…燃ヤセ」 と言った。 翌日魏延の部屋に行くと、もう彼はそこにいて、いつもの仮面のまま書簡に目を通している。春鶯が遅刻をしたわけではなく、魏延が早いのだ。 春鶯がいつも座り、二胡を弾く椅子の上に、一巻、書簡があった。 <生まれてよりこの方のこと、またお前の身には恥になることさえ隠さず聞いたことを、今はいささかならず後悔している。 望むなら、我が仮面のことも聞くがよかろう。我は、それに比して余りある無体をお前にしたと思っている。 自らの力で活路を見出したお前の勇気には感服している。また不自由を不自由とせず、寧ろそれを逆手に取り軍の中で立ち混じっていたことは昨日改めて維将軍より聞いた。誠実で一途な兵だと評価していた。 お前は優れた兵だ。誇ることはあっても、恥じることはない> 書簡を読身終わるのを、魏延は待っていたのだろう。 「読ンダ…カ」 と聞かれ、春鶯が頷くと、 「オ前ノ…話…我…セヌ。安心…シロ」 魏延はその言葉のあと、招集の鉦が聞こえるのを待っていたかのように、部屋を出て行った。朝服に身を包んでいたが、仮面は相変わらずだった。 朝議の間、春鶯は、書簡をばらばらにし、上に書かれた文字を小刀で削り落とし、サラの簡を作る作業をしていた。魏延の達筆を削り落とすのは心苦しかったが、春鶯は、自分の使う簡は使い古しでいいと思っているので、迷いながら削り落とす。と、何かの拍子に、手が滑った。 「!」 とっさに春鶯は指を口の中に入れる。血の味が口の中に広がる。しかし、簡はもうほとんど削り終えていた。 ほんの薄皮一枚の傷はすぐ血が止まり、春鶯は削りくずを集める。すると、その下から、まだ削っていない簡が出てきた。それを取ると、 <お前は優れた兵だ。誇ることはあっても、恥じることはない> という最後の文だった。小刀に手を掛けて、やめた。その簡は、部屋においてある春鶯の私物の中に、そっと隠された。 |