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「…ぅ…ぁ…」
春鶯は、足の力が完全にぬけて、ただぴくぴくと跳ねるのだけは感じていた。
その額に、こつん、と、肌の感触ではないものが当たる。
「…ん」
魏延の仮面だった。春鶯はそれに触れる。
「取ルカ…」
魏延はそう尋ねた。春鶯は、ただ、それに気がついただけで、取ってほしいとも思わなかった。しかし
「…取レ」
彼はそう言う。ゆっくりとはずすと、細い明かりをすかす中で、本当の彼の顔の輪郭だけが、うっすらと浮かんだ。春鶯は、指でその輪郭をたどり、額に口付ける。その代わりに、向こうからは、からめとられるような唇が返ってきた。

 魏延の身の丈からすれば子供のような春鶯の体だったが、その中はしなやかに、入ってくるものをうけいれた。とたんに、春鶯は
「!」
全身を震わせる。大勢の男を受け入れてきたからだが、今だけはまるで物慣れない子供のように震えている。頭の中がかき乱されるようだ。
 妓女は、その雰囲気に飲まれてはいけないと教えられる。いちいち相手する客もろともに享楽に甘んじては、ただ疲れるだけだから、と。
 しかし今はそれに飲まれていいのだ。春鶯の頭の中は、真っ白に、自分と、魏延の言葉にならぬもので満たされている。
『我ノ…春鶯』
初め言われた言葉が呪文のように回っていた。
「…」
うっすらと開いた目をうるませ、春鶯が口をひらいた。しかし、息だけで、言葉はない。
「…」
また、唇を動かした、魏延はその唇に指を当てる。
「我ヲ…呼ブカ」
春鶯は小さく頷いた。
「聞コエル…」
魏延はそう言った。そして春鶯をからめとり、最後の勢いを叩きつける。
「!」
春鶯の背が反った。ややあって、ぽとりと、あふれたしずくが牀の面に落ちた。

 朝早くのうちに、春鶯は牀からそっと抜け出そうとしていた。朝の光までは帳はさえぎってくれない。入ってくる光に背を向けて眠っている魏延の、すぐ手の届く辺りに仮面をそっと置いた。
 もしや、昨晩の仕事の邪魔になってしまってはいないだろうか。春鶯はそれが気にかかる。書きかけのはずだったその書簡を見ると、それは、仕事のものでは
なかった。

<春鶯から伽を望むようなことを言わせてしまった我が情けない。今少しの遠慮がこうなるとは。
 むしろ、このままで心は届くかと、手をこまねいていたのは我であった。
 もしこれから春鶯がここに来たならば、我は…>

 暮れ行くままに煩悶は増していたのだろう。文章にならない、乱れた筆跡。
 書簡には大分空きがあった、その残っている場所に、
<取り乱したことを申し上げて申し訳ありませんでした。今、格別の思し召しのあったことを知り、身を隠したいほどの思いです。
 文長さまには絶対に申し上げぬようと言い置かれた上で、私は使命を負った身でありました。ですが、もうその使命が全うできないことが、自分にもわかります。
この使命を完遂できないとなれば、私はこの場所から離れ、文長さまと二度とお目にかかれないかもわかりません。
 それだけが、今私は悲しいのです>
そう書きおいた。昨晩、出ぬ声で何度も呼びかけたその名前を文字に出来るだけで春鶯はなにやら満たされていた。将軍、とは、もう呼べなかった。

 魏延は、身支度を直して戻ってきた春鶯を振り返らず、いつもの仮面の横顔で、政務の書簡を黙々と処理している。あの書簡はどうしたものか、春鶯が部屋を見渡すようにしたとき、
「…燃ヤシタ」
魏延はそう言った。そういえば、湯を沸かすための火を置く辺りに、だいぶ燃えた跡があった。
「…頼ム」
魏延は、処理済の書簡を指す。あの書簡を読んだ後ならば、わざわざ春鶯に書簡を運ばせる理由も予想がつくだろうのに、彼は全くそのことを言いもせず、いつものように、言った。

 燃やされて良かった、と何より春鶯は思いながら、春鶯は書簡の盤を持って廊下を行く。女官衣の隠しには、一巻の書簡が、別に入っていた。
 しばらく待たされ、
「お入りなさい」
の声があり、やっと春鶯ははいることが出来る。と、
「あら春鶯」
と維紫がいた。しかし、出会えて嬉しい顔が出来るような場所ではなかった。拱手して、いつもよりずっと下座で控える。維紫がその隣に来て、
「あれを全部、あなたが書いているの?」
と尋ねるのを、諸葛亮は書簡から目を上げて
「維紫殿」
と呼び、暗に退室を促すような仕草をした。
「はい。それでは、お話の件、よろしくお願いします」
そこは機微というものだ。維紫は拱手して部屋を出て行った。

 「ふむ…」
諸葛亮は書簡をあらため、
「問題はないようですね」
と言い、改めて、書簡を回すよう手配する。
「それで…」
そのあと、いつものように魏延の様子を尋ねようとした諸葛亮の前に、春鶯は隠してあった書簡を差し出す。
「おや、質問の前から書簡があるとは」
受け取った諸葛亮の顔が、書簡を読み進めるうちに渋くなる。そこには、昨日から昨晩にかけてのことをふくめた自分の今の心境がびっしりと書かれ、最後にこの任務を放棄させてほしいとあったからだ。
「私は人選を誤ったのでしょうか」
読み終えてまず一言、彼はそう言った。
「それとも、私のした観相がそもそも間違いであるということなのでしょうか」
いらだっているようにも聞こえた。諸葛亮が書簡を読んでいる間に、春鶯はもう一筆書き上げて、その後見せる。
<観相のことは、私にはよくわかりません。ですが、今のこの国で、反骨の意味するところをなそうとして、何の意味があるでしょうか。おこがましくも申し上げますが、どうか魏将軍を、もう一度見直していただきたく思います>
諸葛亮は、長く考えた。それから、
「わかりました、魏延殿を監視するのはやめましょう」
とあきらめたように言った。春鶯の顔がぱ、と明るくなる。しかし、
「あなたは任を解かれるのですよ。処遇はどうしましょうね」
といわれると、その明るくなった顔を暗くする。言葉のない春鶯にとって、表情は何よりの意思表示だ。ころころとそれが変わる様を見て、諸葛亮はふふ、と笑った。
「奇遇ですね、実は、維紫殿がここに来たのも、あなたの処遇に関してなのですよ」
意外な言葉に、春鶯は顔を上げる。
「維紫殿が、各武将に娘子部隊をおいて、後宮の警備を厚くしようと計画しているのは、知ってますね」
と言う言葉には、春鶯は頷く。今の後宮には、嗣子・阿斗と孫夫人、蜀漢の地を支配するための融和策として迎えた呉夫人とあり、その警備は維紫隊だけでは補いきれなくなっていたのだ。
「魏延軍にも今度その軍を配備することになり、それをまとめる卒伯には、もとから魏延殿のところにいるあなたがいいと、維紫殿はそう言ったのですよ」
春鶯は複雑な顔をする。そのあと、ぽかん、とした。
「一度維紫殿のところに戻って、そのための教育を受けなければいけませんが」
という諸葛亮の言葉も、聞こえないようだった。
「今の書簡で十分わかりましたよ。私も木石ではないのですから。
 驚いたり、悲しんだり、そう言う顔をすることはないではありませんか」
諸葛亮は書簡を見るのをやめて、春鶯にそう言う。
「魏延殿から離れなければならないのは、あなたが教育を受けるほんのしばらくの間のこと。魏延殿にも話しておきますから…」

 維紫殿の育てた卒伯は、誰に似たのかみな優しくて健気で困ります。
両膝をついて何度も礼をして、拱手もそこそこに飛び出していく春鶯を見て、諸葛亮は笑うとでもなく言った。

 そしてしばらくの時がたち。
 春鶯に辞令がおりた。
<魏延軍卒伯として、娘子部隊某名と共に配属されるものとする>
春鶯は、その書簡を手に、廊下を小走りに入っていた。勿論目的地は魏延の部屋である。と。
どす。
「!」
何かにぶつかり、転がって、見上げると、他ならぬ魏延が、半分口を開いた
驚きの顔でいる。
「…春鶯、カ」
その確認に頷く代わりに、春鶯は、書簡を差し出し、飛びつくように抱きついた。

 「春鶯の二胡、戻ってきましたね」
副官がいうのを、
「そうね、嬉しそうね」
維紫が答える。一度途絶えて、またどこかから聞こえるようになった二胡の音は、いたわるように将兵の住まうあたりに響きはじめた。

 ある朝、春鶯は、魏延の部屋の牀で目を覚ました。事態の理解にしばらく時間を使ってから、傍らに仮面が転がっているのに気がつく。
<いけない!>
服を直すのもそこそこに牀を飛び出すと、魏延は、春鶯がいつも座っている椅子に座っていた。物音にで気がついたのか、魏延が振り向く。逆光になって顔はよく見えないが、春鶯はあわてて、服の乱れを直した。
「起キタカ…」
近寄ってくる春鶯をもう少し引き寄せようと手を引いた魏延の顔は、その顔一杯に、彼女がそこにいることを喜んでいた。

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