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春鶯に引っ張られるようにしてついてきた医者は、今までの経緯を春鶯の書簡で確認し、 「では失礼しますぞ」 と診察に入る。 「ふむ…ふむ」 と診察をする医者の前に、春鶯が追いかけるように書簡を見せる。 「…ああ、わかっておるよ。誰にも言わぬ」 そして、その書簡の空きに、見立てを書き込み、 「わしは戦で手傷を負ったものを癒すのが勤め、このことは寧ろ、お前さんのほうがよく知っておるようだし、任せよう」 といって去ってゆく。春鶯は、安心したように胸に手を当て、維紫に書簡を見せた。 「…え?」 その文面に、維紫はきょとん、とする。 「私が?」 と尋ね返されて、春鶯はこれ以上は出来ないという勢いで頷いた。 「…信じられない」 いきなり懐胎したといわれても、はいそうですかとはいえなかった。しかし春鶯は、妓楼にいた妓女が、時にそうなることを見知っていたから、維紫の様子を見てそれとなく察したのだろう。 信じられないが、現にそこにあるという。手の触れようもないそこに、龍の子が。 <お知らせするなら、誰の目にもはっきりする頃が良いと思います> 春鶯はそう言った。話には、まもなく陥落させるための攻撃が始まろうというのだ。 <維将軍にもしものことがあり、なにもかもだめになった時のことを考えると、今申し上げては逆に趙将軍にはお心の迷いになります。 これまでどおりにお過ごしください。ただ、戦だけはいけません> 「でも私は、命じられれば出なければいけないのよ」 <避けてください、お一人の体ではないのです> 「…わかりました」 維紫は、ややあって、そう言った。 「一時、この体を守りましょう。龍の子ですから」 「おんや、久しぶりの顔だねぇ」 維紫が、川に沈めた籠の中の銀龍を見ていると、ふらりと、ホウ統が近づいてきた。 「隣、いいかね?」 「はい」 そうして、二人は、秋めいた風景の中にぽつんと座る。 「あの鯉、」 ホウ統が、持っている杖で銀龍を指した。 「お前さんが馴らしているんだってねぇ。食べないのかいって、世話している子に聞いたら、えらい勢いで怒られたよ」 「でも、普通はそうですよね。私も、本当は食べたくて買ったはずなのに」 維紫がそれに答える。ホウ統は、 「まあ、そういうよくわからないところが、お前さんのいいところなんだろうねぇ、和まされるというか」 と言う。 「このごろ、調子悪いんだって? それなら、今度の総攻撃は、お前さんは後詰めがいいねぇ」 「もうだいぶいいはずなんですけど」 その場しのぎのように言って、維紫は川に自分の顔を映してみる。顔に、目に見えて変化があるわけではない。 「自分がいいと見えるのは、他人には悪く見えるものさ」 ホウ統は 「鯉は縁起物なんだよ」 と言った。縁起物、と言うのが聞こえたのか、籠の中でぱしゃぱしゃと、銀龍がうごめいた。 「天には、そりゃあ激しい滝の上に龍門っていうものが構えてあって、何でも、滝を登りきって龍門をくぐれた鯉は、龍になるんだよ」 「そうなんですか」 「もっとも、どこに行けば、天の龍門に通じる滝があるのか、あっしもわからないけどね」 ホウ統は、はっは、と短くわらって、よっこら、と立ち上がった。 「風が冷たいねぇ」 「はい」 「趙雲殿が心配しているから、早く治したほうがいいよ」 「はい、ありがとうございます」 「その鯉も、食べられないように、気をつけなよ」 そんじゃ。ホウ統はあくまで飄々と、維紫の元を離れていった。 維紫は、龍の子を「鯉児」と呼ぶことにした。世に生まれ出たら龍になる子なのだ、この体で守っている間は鯉でいい、と。 鯉児は、維紫に何の反応も返さない。しかし、維紫の体の具合を崩すことで、底にいることだけをただ訴え続けている。 <この一月が我慢のしどころですからね> と春鶯が言う。その一月が過ぎれば、体調も戻り、そのあとは、だんだんと世にある懐妊した婦人と同じようになるから、周りが逆に心配してくれると。 「鯉児」 と、まだどうにもなっていない体をそっと撫でる。一人だった自分が、一人でなくなるのが、なんとなく嬉しかった。鯉児の話が出来る時が来るのが待ち遠しかった。 しかし。 「維将軍、おられるか」 と兵士の声が幕舎の外でした。 「います、どうかしましたか」 「軍議です、ご出席を」 「…わかりました」 軍議を行う広い幕舎に、将が集められていた。 「さあて、埒もあかないようだし、さっさとつんでしまうよ」 ホウ統が、すでに広げられている近辺の地図を見せる。 「今まで油売ってたみんなも、全員出てもらうとするかねぇ。 布陣はここにあるとおりだ、ここがあっしらのもんになれば、いよいよ劉璋殿も尻に火がつくだろうよ」 その言葉に大笑するものあり、苦笑いするものあり。 「で、いつ始められるのだ」 という問いに、ホウ統は、 「そうだねぇ、準備もあるし、明日か、明後日か」 そんな風に答えた。 自分の位置を確認して、自分の幕舎に戻る間、維紫は趙雲の後についていた。 「この間、ホウ軍師様とお話しして、まだ体調が思わしくないなら後詰めがいいと仰っていたので…」 陣営守将の中に維紫の名前が入っていたことに趙雲が首をかしげていたのを、維紫はそう説明した。 「そんなに悪いか」 趙雲はそう返す。月は暗くもなく、かといって明るくもなく、顔色から維紫の様子を判断することは出来ない。 「いえ、もうだいぶいいのです。ただ、大事をとってということなので…」 正直、あまり心配をされてほしくなかった。あまりに自分をかばうような言葉を続ければ、見た目なんでもない分、臆したように見えて叱責されるかもしれないと思った。 「もうよいのなら、お前は前線にいてもよい。ホウ統殿に掛け合ってくる」 即断であった。趙雲はくるりと、出てきたほうへ戻っていってしまう。 「…」 そんな趙雲を、維紫は見送ることしか出来ない。ここでもし鯉児の話が出来ればと、維紫は思ったが、この戦いを乗り越えられるまでは打ち明けないと決心したのだ。 「鯉児、私はこれでよかったのかしらねぇ…」 まもなく来たその日、結局維紫は趙雲のすぐ後に控えている。 「お前でなければ、私は安心して後ろを任せられない」 彼は短く、それだけ言った。 「…ありがとうございます」 維紫はそう答えた。 こちらの総攻撃に備えてか、城にもたくさんの弓兵が城壁の上に並び、城に近づくまでには、相当の矢が降り注ぐだろうことが思われた。 『鯉児、あなたは龍の子。これぐらいで、どうにかなったりしないわね?』 前進の鉦が聞こえる。 「雷姫、行くぞ」 「はい」 二人はほぼ同時に手綱を引き、馬を走らせた。 そろいの槍が並んで進軍してくる様は、嫌が上にも目立つものである。方や長坂単騎突破の名声もちろんとして、劉備の股肱の一人に名前を連ねている常山の趙子龍、そして、その趙雲と同じ槍を取り、型もそのまま写し取ったかのように馬上からその容貌からは考えられない鋭い攻撃を与える、味方にとっては玄女・維雷姫、敵にとってはあやかしのような女武将である。敵にとっては、どちらも、討ち取れば相応の見返りのある武将だ。 「女だ! 女は馬から落として、縛してしまえ!」 と言う声は、生きたまま捕らえればその後には楽しみがまっていると、相場が決まっているからだ。維紫は、込みあがってくるものを、文字通り、砂塵の敵の中に吐き出した。 苦い記憶が戻ってくる。まだ兵卒だった昔、あのままでいれば、囲まれた何人という男たちに汚されていたかも知れないあの一時を。しかし、今は黙ってそんな立場に甘んじるほど、自分は弱くない。 「将軍、私がひきつけます、開城の本分全うくださいませ」 「頼む」 馬の脚を緩めると、剣戟の中に龍の尾の髪が消えてゆく。 |