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桂陽小燈


 紆余曲折があって、今維紫は桂陽にいる。
 赤壁の戦いの戦後処理で、荊州の中南部四郡を実質支配下に置くことになった劉備は、最南部にあたる桂陽を攻撃し接収した趙雲を太守として引き続き桂陽をまとめよといってきた。
 維紫はむくれている。中央から遠いところに来させられたからではない。
 桂陽に来て、維紫の処遇は格段に上がった。定員外とはいっても、太守の補佐官になり、将軍の号もないが部隊を配された。場外に屋敷を貸与され、大勢使用人もついている。
 それが窮屈だからでもない。今しがたもたらされた話が引っかかる。

 観相などと言うたいそうなことのできない維紫にも、その趙範と言う男が小物だ、ということはすぐにわかった。もっとも、彼女の中の基準いかんでは、世の中のたいていの男は小物になるだろうが。
 ともかく。まだ武装も解かない趙雲に、趙範は額を擦り付けるようなへりくだりようで、
「太守、まだ私どもをご信用いただけませんか」
と言う。
「いや、桂陽を接収してまだ何日も経っていない。趙範殿のことは十分わかっているつもりですが、他の諸大夫はいかがかと思い」
「今や大徳の誉れ高い劉皇叔に、否やを唱えるものがおりましょうか。
 本日も、この趙範にはや二心ないこと明かすさめ、お話を持ってまいりました所存」
「話?」
戦後処理の書簡を開きかけようとして、趙雲は趙範のほうをやっと見やる。維紫もそのほうを向いたが、出てきた話に唖然とした。
「前の太守は私の兄でございました。その妻は姓を樊と言い、手前勝手ながらその美貌、大将軍にこそふさわしく、これを…」
「趙範殿」
陰で口のあたりを押さえて驚きを隠さない維紫を一度ちらり見たあと、趙雲は複雑な顔をして、
「その樊夫人を私にお勧めされるお気持ちはありがたい。しかし私達は同姓、再び趙の男へ縁付かせるのはいかがなものかと」
平たく言うと、同姓ということは、縁の近縁関係なく親戚と同様にみなされる。親戚うちをたらいまわしにするような扱いは問題があるのではないか、とそういうことだ。
「太守ならお受けくださると思っていたのですが」
趙範は難しい顔をして、しずしずしず、と、引き下がっていった。

 「もったいない」
と、桂陽に前から勤める官吏が言う。
「夫人は趙範殿が謙遜するまでもなく、美女の誉れ高い方、太守が仰るのももっともですが、伺うに太守はまだお身をかためておられません、この際…」
「私は据え膳を食うほど飢えてはいませんよ」
趙雲は書簡から目を離さずに、官吏の言葉を一蹴した。

 桂陽の官吏は、よほど取り入りたいのか、しばしば樊夫人のことを打診する。しかし、そのたびに趙雲は断る。
「いっそ、お迎えになったらいかがですか?」
維紫がそう言った。趙雲のすげない態度にあきれたわけではない、何度も同じ話を聞くのに飽きてきたのだ。樊夫人のハの字でも出ると気分は憂鬱だ。
 趙雲はくるり、と、維紫の方を向いた。そして、自分の胸を指し、維紫を指す。
「私の方寸は、二人も三人も入らない。不器用だからな」
「〜!」
維紫はぐ、と唸る。仕事の一部が太守の私室に持ち込まれていて、維紫はその手伝いをしていた。
「それとも、迎えたほうがいいか? 雷姫のよしとする方向に進もう」
「…趙範殿は、信用できません。もしかしたら完全に逆風になった今の桂陽から出奔するかもわかりませんし、そうでないにしても、有能な官吏とは…」
「私もそう思う」
趙雲は書簡を巻き閉じて、次を促すように維紫に手を出す。
「趙範殿の申し出を受けると、私はこの場所に楔を打たれる。私は、こんなところでとどまるわけにはいかない」
そう言う間にも、趙雲はくくく、と小さく笑う。
「どうしました将軍」
「雷姫も悋気を持つのか」
「は?」
「見ていないとでも思ったのか。樊夫人の話になると、お前の顔は百面相だ」
「…」
維紫は返す言葉も出ず、そのまま部屋を飛び出した。

 私だって悋気持ちますよ。やきもちやきますよ。知っていてあの話を聞いては受け流していたなんて、将軍、人が悪すぎる。
 城内にある部屋の牀の中で、維紫は猫のように丸まってその悋気が噴き出すのを押さえていた。
 その樊夫人と言う人は、もっとしおらしい、内助に徹する、いわゆる女らしい人だというのは、維紫にもわかる。維紫にはまねできない。しろといっても無理だ。それが自分の道だからと、武の道、軍の中にある道を選んだのは、誰でもない、自分だ。
 兵士になる道を選ばなかったらどうなっていただろう。維紫はそんなことも考えた。
 人買いにだまされて、身を削って暮らすようになっていた?
 それとも、何とか食い扶持を確保して、平凡な誰かの妻になった?
 否否、と維紫は首をふった。そんな生き方は自分が許さない。だから自分は新野で募兵に応じた、そうじゃないの?
 明かりもつけず、しん、とした部屋にがさり、と物音があり、
「雷姫」
後ろから声がかかった。
「ふてくされるとは、お前らしくない」
「放っといてください。それよりお仕事は」
「お前にあんな風に飛び出されては続きに身が入るものか」
がさ、ごそ、がさ、と後ろの物音が引き続いて、維紫の後ろから、温かい腕が伸びてくる。
「時々私は、どこから本物のお前なのか、わからなくなるときがある」
「私は、私です」
「私の中のお前は」
「…」
「私のために兵卒から傷を受け、漢津で『竜胆』と一緒に待っていてくれた、そういうお前だ」
そして、腕が解かれる。
「確かに、お前を面白がっていた節は否めない。
 …すまない」
声と足音が遠ざかって、またしん、とする。維紫はくす、と鼻を鳴らした。

 やがて、趙範は出奔していった。樊夫人の話も、誰がやめるともなく、言い出さなくなった。
 趙雲は太守の仕事に没頭し、維紫が部隊の練兵にあたる。仕事以上の会話はない。そんな日々があり、ある日。
「お客様です」
と部屋にはいるなり言われ、部屋に招くほど親しいものもいなかったが、と、いぶかしく思いながら進んでゆくと
「月英様」
月英がいた。
「ご機嫌いかがですか維紫様?」
胸襟開いて語り合う相手もなく、頼りの相手とはすれ違い、そんな維紫に、月英の来訪は、何よりの救いだった。
「あ、あ、維紫様」
月英の顔を見るなり、子供のように泣き崩れた維紫を月英はあわてて立たせ、
「お屋敷はどちら、そこで話しましょう」
と言った。

 諸葛亮のそばにいなくていいのかと言う維紫の問いに、
「私は孔明様の耳目となって今荊州を見て回っている途中です。桂陽は一番南なので、今になってしまいましたが」
「今のところは…取り立てての問題はありません」
「ええ、そのようですね」
月英はさらりと答えたが、おそらくは、維紫の会う前に趙雲から公式な報告を受けているはずだ。しかし月英は心配そうな顔でいる。
「でも、趙雲様はあまりご機嫌がよろしくないようで、その上維紫様まで…
 なにか、ありましたか。私が見ている限りでは、兄妹のように不即不離でいらしたのに」
「いえ、特には。将軍は太守として今桂陽をまとめることに傾倒されてしらっしゃるので…」
維紫がそう言い逃れをしようとしたが、月英はそれをはじいた。
「政務上のことではありません、個人的なことで」
できればいいたくなかったが。維紫はあきらめたようにボツボツと、あったことと心境を話す。
月英は苦笑いのような笑みを浮かべて、
「やはり」
と言った。
「は?」
「桃の実は、ほんの少しでも傷をつけると、そこからいたんでしまうものなのに」
「月英様?」
お任せくださいませんか、私に。卓を超えかねない勢いでずい、と顔を突き出され、維紫は抵抗できなかった。
 思えば、兵に志願したとき、維紫の中に何かを見た諸葛亮が月英にとりいそぎの世話をさせたのがはじまりだ。月英は維紫を妹のようにでも思っているのか、惜しまず世話を焼く。
 今回も、何かを考えているに違いなかった。しかし、その何かはつかめずに、吉日の占いをはじめた月英を、維紫は見ているよりない。

 「小宴ですか」
二人一緒に、太守の仕事場に顔を出したら、趙雲は二三日分の無精ひげを蓄えて、疲れた目を上げた。
「しばらく、維紫様のところでお世話になるつもりでいるのです、その間に。
 聞けばこのごろお仕事ばかりで外に出ることもないとか…
 気心知れた三人だけでお話でもできたらと」
いかがでかすか? 月英に確認されても、
「ですが」
趙雲は気乗りがしなさそうだ。月英はふう、息をついて、
「維紫様がお迎えする役ですよ、何か言って差し上げないと」
と言う。維紫は、しばらく考える。そして、
「将軍」
口を開いた。
「ご自身の健康管理も、お仕事のうちですよ」
不思議な空気が流れた後、
「まさかお前にそういわれるとはな」
やっと趙雲の重い腰は上がりそうな気配を見せた。
「いつになりますか」
との問いに、月英は
「幸い、本日が宴をもつには好い日です」
そう返答する。書簡の山を横目で見つつ、趙雲は唸るように言う。
「今日ですか…急だな…」
「でも将軍、何日も休んでおられないじゃないですか」
維紫が言う。
「しかし、これが私の仕事だから…」
「がんばりすぎは体に毒です!」
言い合いになりそうになったところを、まあまあ、と月英が割って入り
「何も気がねなく、新野の頃のように、お体ひとつでいらしてくださいな」

 小宴というのも大げさで、三人卓を囲み、時に話は清談となり、また時局の話となる。
「そうでしたそうでした」
月英が思いついたように、書簡をひとつ取り出す。
「孔明様が維紫様にと私に託したものですが、お二人で読んでも差し支えないとのことです」
どんな難しいことが書いてあるのだと、維紫は一度書簡をおし戴いて開く。

<今の荊州の勢いにはあなたの功績によるところ少なくないこと、それは諸将、言葉に出さずとも認めているところです。よき将となられたこと、慶賀申し上げます。
 私達は今、天を極めるために頭をもたげた龍、昇龍になるや否やは、これからの私達の盛り立て次第なのです。そのことをふまえ、よろしく職分を全うするよう。終わりではありません、むしろ、これが始まりなのです。
 新野にある前、我らが殿は胆力並々ならぬ龍を得て勢いづきました。そして、惰眠をむさぼっていた名ばかりの龍を、目覚めよと檄されました。
 龍とは、雲を駆り空を行くものです。白雲もまた好し、しかしあなたの名が加わり紫雲となればそれは瑞兆。
 瑞兆の勢いに乗り、龍が雄飛する様、あなたがいればより確かなものと、期待しています>

 「えー…と」
書簡の中の意味がいまひとつ読みきれず、維紫は小首をかしげる。しらふでもきっと読みきることはできまい。きっと、月英はわかるだろうが。
「軍師のお言葉は、私の名前はよい名前だと、それを仰りに、この書簡を? 前からそう仰ってくださることはわかっているのですが」
「そんなところでしょう。それに」
書簡を流し読みして、月英は言った。
「そもそも、あなたが趙雲様のもとで将になるよう手配したのは孔明様です。私同様、心配をしているのかも知れません」
月英はすっと席を立ち、
「旅の疲れがいえておません、今日はここで失礼いたします」
慇懃に一礼して、部屋を出て行った。

 月英の姿がなくなってから、武装から装甲の類をおとしただけという、本当に簡単な格好で来た趙雲は、維紫の体をひょいと自分の膝の上に乗せあげた。維紫が気まずそうに言う。
「…恥ずかしいんですけど」
「漢津では何も言わなかったのに。あの後船の中で、体を私に預けきって眠りこけていたので、私も困ったのだ」
「すみません、あの時は、気が緩んでしまって…」
酔いも何も吹っ飛んで縮こまっている間に、趙雲は維紫に宛てられた書簡を読む。維紫もそれを覗き込んで、
「どういうことか、わかります?」
「…なんとなくは」
「何が書いてあるのです?」
「うむ、読み取る限りでは」
趙雲は言うことを整理しようとしているのか、少し間をおいた。
「私達二人の名を合わせると『紫雲』となり、それは瑞兆である、と」


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