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阿美…それから


 「うむ…」
けだるそうに歩く呂蒙とすれ違いざまに、
「おっさん、顔色悪いな」
と甘寧が声をかけた。
「寝てるか? 食ってるか?」
「快食快眠は将の基本だ。
 …と言いたいところだが」
呂蒙は無精ひげのなくならないあごをひねる。
「寝起きが悪くてな」
「大変だな、都督見習いは」
甘寧ははは、と笑って、
「おっさん、俺んとここいよ、いいもんやるから」
と、呂蒙の腕をつかんでさくさくと引きずってゆく。

 甘寧の部屋に、甕が一つある。
「なんだそれは」
「今のおっさんにゃちょうどいい代物だ」
甕のフタをあけると、つんとする、強い酒と薬草の匂い。
「甘寧…まさかコレ…」
呂蒙は先日の大宴会を思い出した。飲む食う打つの三拍子そろった無礼講であったが、その宴会の雰囲気を引き裂くように
「きゃああああああ」
と小喬の叫び声がした。
「こ、この甕のなか、亀が入ってる!」
カメの中にカメ。入れ子構造ではない。
「滋養強壮この上なし、夜のお供にいかがですかっ…と」
と、甘寧がすすめるのに、
「だーかーらー、そういう下品なもの見せるなっつの!」
後ろから全速力で近づいてきた凌統のかかと落としが見事に決まり、そのまま酒そっちのけの大乱闘のほうがほよどの余興になった、アレである。
「お前あのスッポン酒本当に持って帰って来たのか!」
「当たりきしゃりきの車引き、ツテ使いまくって探し出してきたんですぜ? 突っ返すわけにもいかんでしょ」
甘寧は飄々と言い、そばに並んでいる空の瓶子に酒屋よろしくととと、とつぎ入れる。
「孫策様に周瑜殿も、たまにもらいにきますぜ」
「戦がないと思ったら商売か。
 商いの神がいるとかいう蜀の方向へよく拝んでおくのだな」
呂蒙はそう言って、瓶子をぶら下げて戻ろうとする。と、
「おっさんおっさん、ちょい待ち」
「ん?」
「一応、運び賃のモトだけは取ろうと思ってね」
「調子のいい奴だ」
甘寧の差し出す手に、持っていた小銭を袋ごと投げて、呂蒙は改めて戻っていった。

 横文字で言えばワーカホリックともいえる孫策と周瑜にまで、
「顔色が悪いから帰ったほうがいい」
といわれ、呂蒙はしょうがなく家に戻る。帰るなり、
「お兄ちゃんお帰りぃ」
阿美が飛びついてきた。
「…阿美」
「何?」
「そう言う出迎え方は勘弁してくれるか」
「だって」
護衛武将の任を拝していないときは、それなりにめかした格好でいる阿美を見て
「いるところがないというから、屋敷の一部を貸しているだけであって」
「はーい、わかってまぁす」
本当にわかっているんだろうか。呂蒙はそう思ったが、ふと思いついて、
「阿美」
と振り向いた。
「何? お兄ちゃん」
「俺の顔色、おかしいか?」
阿美はうーん、とためつすがめつして
「あたしには悪く見えないけど?」
と言う。
「そうか…おかしいな」
「どうかしたの?」
「最近寝起きのよくないのが顔に出たらしい」
「そうなんだぁ。書簡読むのはほどほどにして、ちゃんと寝たほうがいいよ、お兄ちゃん」
「そうする」
阿美の忠告ももっともだ、呂蒙は中に入り、そのまま部屋にある牀で眠ることにした。

 少しは眠れたらしい。阿美が
「お兄ちゃん、夕飯食べるの?」
と尋ねる声で目を覚ました。
「そうそんな時間か」
「食べないともっと体によくないから。もってこさせるね」
阿美はつと、半分腰をかけた風でいた呂蒙の牀から立ち上がって、部屋を出て行った。
「昼寝では変わりないのに、普通に夜眠るときだけ出るものか?」
夕食が持ってこられる間、呂蒙はまた、じょりじょりのあごをなでつつ考えた。

 三十路も目前になってこんなことで人を煩わせるのは心苦しい気がしたので呂蒙は黙っていたのだが、彼にはどうもなにか憑いているようだった。
「…狐、か?」
狐が憑く。それは、すなわち夢魔…この場合、男につくのだから横文字で言えばサキュバスである。
 まだ少年の頃はしょっちゅう見たような夢を、今になって見るのはどうしたわけだ。
 考えている間に夕飯が運ばれてくる。
「お兄ちゃん、顔色は悪くないけど体がだるそうだったから、特製の夕飯だよ」
阿美がいそいそと卓にそれらを並べ始める。
「それに、お城から戻ってきたとき、お酒持ってたでしょ、アレも飲もう」
「いや阿美、あれは薬酒で…」
「独り占めするの?」
「そこまで言うなら確かめてみろ」
呆れるように言われ、阿美は匂いを確認する。
「…臭い」
「お前は普通の酒がよかろう」
呂蒙は言って、差し向かいの夕飯が始まった。

 聞けば、姉は母の元に戻っているという。時間があるときに一度帰って顔を拝んでくるか、そう思いながら飲むスッポン酒は、薬と思っていなければ飲めたものではない。
 そのまま、腹ごなしになにとはなしの話が続く。
「阿美、まさかお前、今の名前で護衛武将やっているのではあるまいな?」
呂蒙が尋ねると
「そのまま、ケ美でやってるよ」
阿美は悪びれず返した。
「…縁組をしたか、加笄(=元服)のときに字をもらっただろう」
「使わないよ。字とかあったって、あたしのいるあたりじゃあんまり意味ないもん」
確かに、護衛武将程度の身分では字などはいらないだろうが…
「しかし、俺の姪として嫁に出すということになったら、あったほうがよかろう」
そう言うと、阿美は小さな子供のようにぶんぶん、とかぶりを振って
「行きたくない」
行きたくない
「離縁されたわけではないのだ、あきらめたようなことを言うな」
「私より先に死なないって約束してくれる人のところならいいよ」
「…なら探すか」
「…そう言う気持ち、嬉しいけどさぁ…あたしはまだお兄ちゃんと二人だけがいいな」
阿美は擦り寄るようにして言う。縁付いた夫が二人とも戦で逝ってしまっているのだ、なかなか次に踏み切れるものではないか。呂蒙は
「まあ、お前にも都合があろうから、この話は今はおいておこう」
と言った。

 そして夜になっても、阿美は無防備に、呂蒙の牀にもぐりこんでくる。
「こらこらこら」
呂蒙はその阿美を牀からつまみ出した。
「亡くしたとはいえ夫を持った身がすることではない」
「昔みたいな『ないしょないしょ』なことぐらいしたって…」
「よくない」
「今はもう全部わかったんだよ」
「なおさらよくない」
呂蒙はさらに阿美を部屋から押し出して、絶対に入れるなと家のものに言った後、改めて牀にもぐる。
「『ないしょないしょ』か」
しょうもないことを覚えているものだ。呂蒙は横たわって、げんなりとそう思った。

 まだ、阿蒙が姉の婚家に厄介になっていた頃である。阿蒙はその頃、義兄の
部下に誘われて、花街に立ち寄ることを覚えた。ただそこにいるだけで、紅白粉の香りが漂うような場所だった。
 覚えたといっても、居候の身では妓楼にあがるどころか花街を客引き顔で歩く妓女を見るのがせいぜいで、それでも阿蒙には十分刺激的だった。
「あの中で何があるか知ってるか?」
部下の兵卒は目をあちこちしている阿蒙にそう尋ねる。阿蒙は
「大体は…」
と答えはしたが、具体的にどういうことが起こっているかまではわからない。
「俺もしっぽり一晩、店一番の女とすごしてみてぇなぁ」
兵卒達はそう言いあいながら、ただ花街をうろつくことしか出来なかった。阿蒙もまたしかり、である。

なぜかしら、しなりしなりとした妓女の誘わしげな姿態が頭から離れない。
阿蒙がまだ若いと見て取って、興味本位で見に来る妓女もいた。
「!」
そう言う妓女を思い出すと、なぜかヘソの下が変化する。そうなったら、することは一つだ。

 部屋の、入り口からなるべく見えないところで、その一人遊びは行われる。
 こうまで膨張して硬くなったものが、相手には入る場所があるということ自体が信じられなかった。しかし、そこは、一度味わうとさらに病み付きになるというが、本当だろうか。
「…ううっ」
そんなことを考えているあいだに、あっさりと上り詰めようとする。じきに噴出すものを受け止めるよう、布をかぶせたとき、
「お兄ちゃーん」
阿美の声がした。

 牀の上にいた阿蒙は、あわてて、出ているものを掛け布で隠す。
「お兄ちゃん、どうしたの」
「昼寝だよ」
と阿蒙は言って、阿美はそれを信じたようだった、というより、そのとき阿蒙がどういうことになっていても、おそらく意に介さなかっただろう。
「あのねあのね、母さんの部屋から、こんなの見つけちゃったの!」
阿美は、寝台の空いているところに巻物を乗せる。書簡ではなく、布で綺麗に作られた巻物だ。
「すごく綺麗で、もってきちゃった」
「ちゃんと返しておけよ」
言いながら阿蒙は、その巻物を広げる。途中まで広げて、阿蒙はその巻物を巻きなおして、
「阿美、これ、もとあったところに戻して来い」
と渡す。
「なんで?」
「なんでも」


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