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「黄金の都」亭の夜

 ミレトスの町には、光と影がある。
 華やかな貿易の町。自由で、闊達で、決して後ろを振り返らない、そういう世界が光とすれば、その光の届かぬ先で、ゆめ破れたものが当てもなくすだく、そういう影の世界がある。
 光と影が交錯する時間。夕刻。
 目立たぬようにしつらえられてはいるが、品格だけは消しようがない、いかにも貴婦人の微行といった体裁の馬車が一台、ぼちぼちと明かりの付きはじめた賑やかな往来をゆく。
「停まって」
馬車の中から声がした。御者が手綱を引く。
「なんなの? あの人たち」
物見から白い指が出て、夕日の影になった街角を指す。こぎれいな女が三々五々かたまって、道行く人々を、品定めでもするように見ている。馬車の中の人物には、それが、この馬車を走らせている御者にも向けられていたのがわかったものらしい。
「ああ」
しかし御者はなんでもない、と言うように答えた。
「娼婦だよ」
「しょうふ?」
「体を売るのさ」
「…そう」
それがどう言うことを言うのか、物見の中の存在はまだ分かっていないようだった。
「ま、あんたには関係ない話さ」
御者は馬を走らせる。
「これからの時間、あんたにはいろいろと刺激が強すぎるよ、この界隈は」
「そう」
「急ごう…イシュタル。この街には、明日、昼の間に寄ろう」
「ええ」

 馬車の中の貴婦人はイシュタル。御者をしていたのはファバル。旅行に問題ない程に病の回復したイシュタルに大陸各地を見せてあげたいと、ファバルはずいぶんとだいそれた計画をたてた。各地に散った仲間達に連絡をとり、その彼等の街を訪ね歩くと言うところだ。
 フリージを発ち、ドズル・ユングヴィ・シアルフィを経由し、いよいよ彼等はミレトスに入っていた。
 城育ちのイシュタルに、「街」というものは新鮮な存在だった。建物の中では、自分が通るのが分かれば誰もがその場に立ち止まって礼の一つでもしようものだが、ここでは、誰も自分のことを気にもかけてくれない。気にかけてくれるのはファバルだけだ。
「ねえ、ファバル?」
「ん?」
「これから、どこにいくの?」
「ああ…傭兵をやっていた頃に一時雇われていた相手が、ミレトスに近い場所に別荘を一つ持ってるんだ。ダメモトで掛け合ったら喜んで貸してくれた。今夜はそこで休もう」
そこに、
「あれあれ、宿をお探しではないのかい?」
と、声がかかった。ファバルが
「え?」
と声のした方を見遣る。
「どちらにおいでです?」
「どこだったいいだろう」
相手にしたく無さそうな態度をとるファバルだったが、イシュタルはそっと物見をあけて、
「街を抜けるのでしよぅ?」
と言った。
「え、今からこの街を抜けなさるのかい。それは難儀なことで。この街を出て南においでになるといっても、森は恐ろしゅうございますよ。最近は暗黒教徒くずれの野党も出没すると言いますし」
「そんな話は聞いてない」
ファバルには、この存在が、目の前にある館(宿屋である)の客引きであることは分かっていた。イシュタルはその話を間に受けて
「まあ」
と声を雲らせる。
「そうそう、そうなんです。それに、よく見れば馬も大分疲れておりますし。
 どうです御婦人、馬とこのお付きを早めにやすませるということで」
「まあ、ファバルはお付きなどではありません」
「あ、」
客引きは何か一物ありそうな声を出した。
「これは、とんだ勘違いを。
ええ、御夫婦なら、ぴったりの部屋がここにはいっぱいございますよ」
ファバルは目尻を赤らめて天をあおぎ、額に手を当てた。物見の向こうがわでイシュタルもばつの悪そうな顔をする。
「あれまあ、そんなお顔をなさらずに」
客引きはファバルの手から手綱をもぎとった。
「御夫婦御案内です〜♪」

 二人の様子から足下を見られたのか、とおされた「黄金の都」亭の部屋は、やけに上等で、専属の召し使いもいるようなところだった。
「…」
ここにとどまることが決定してからと言うもの、ファバルはずっと何も言わない。イシュタルはさっさとそこにあった椅子に座って
「ファバル、何そう気難しい顔をしているの」
と聞いた。
「恐ろしい森の中に入るよりはずっといいのに」
「そうじゃない」
ファバルはぼそっと呟くように返した。
「あれは、ここに俺達を入れたかったあいつのウソなんだよ。そういうのが常識なんだ」
「え?」
「確かに、俺達は道を急いでいたよ。でも、この道を選んだのは失敗だった」
ファバルはがっくりとうなだれる。
「なぜ」
しかし、イシュタルにそう尋ねられても、彼には、まさかここが「そういう宿」の固まる一角とは言えなかった。
「なんでも」
ファバルはやけくそぎみに答える。シュタルは満足な答えがかえってこなくて、よく見なければ分からない程だが不機嫌そうな顔をした。
 そこに
「お風呂の用意が整いました」
「奥様がお先に? だんな様がお先に?」
「それとも、お二人御一緒に?」
と、召し使い達が言う。
「二人?」
イシュタルが目を丸くする。ファバルは、召し使い達が事情を説明しようとするそのくちを塞ぐように
「わーっ」
と立ち上がり、
「…イシュタル、先入ってこいよ」
と、言った。
「?」

 それなりに豪勢な夕食もすみ、夜はとっぷりとふけはじめていたが、見下ろす街はまだ明かりが輝き、眠る気配はない。
「すごい」
イシュタルは、バルコニーからその街を見下ろしてため息をついた。その後ろでファバルが、
「明日も早いぜ、眠らなきゃ」
と言った。
「用意はできてるから。朝起こしにいく」
「え?」
続きになっている寝室を覗き込むと、少し広めの寝台のそばに、別に寝具一式が置いてある。
「用意してもらったんだ。人もみんなどっかに行ってもらった。」
「…」
「ま、いろいろ、あるからな」
イシュタルは少し黙って、
「ファバル、これはいけないわ」
と言った。
「え?」
「だってそうではないの?」
「え、え、でも、」
フアバルは彼女の意外な反応に泡をくう。
「ここは、二人一緒でないと意味がないお宿と聞いたわ」
イシュタルがふと顔を背けがちにする。
「それでもいいと思うけど」
「でも、迷惑じゃないか?」
しかし、イシュタルはそれを頭をふって否定し、ぎゅ、と、ファバルの手を握った。

 結局、ご同衾となった二人だったが、特になにをするでもなく、時間だけが過ぎてゆく。
「…ねぇ」
イシュタルが口を開いた。ファバルはずっと、彼女に背を向けている。
「夕方見た…『しょうふ』という人たち…『体を売る』って、どういうこと?」
「あんたはわかんなくていいよ」
「知りたい」
「…」
ファバルはもう一度、同じようなことを行って無理にも諦めさせようとして寝返りをうった。す
ると、分かってはいても、イシュタルの顔が目の前になって言葉を失う。
「ファバル?」
「し、娼婦っていうのはな、自分の体で金を稼いで生活のたしにしているんだ」
「働くと言うこと?」
「ちょっと、ちがうかな… 一晩…いや、一時幾らでどんな男とも寝るのさ。『寝る』って、この場合どう言うことか、分かるよな」
「ええ」
「そういうことさ。生活のために仕方なくっていうのが大勢だけど、中にはすきでやってると言うのもいる」
「…私と、あまりかわらないかも知れない」
イシュタルがふとんに顔を埋めるようにして言った。
「私が手に入れていたものは、将来の王妃と言う御墨付きと、それに伴う名誉、名声…そして、それに付け入ろうとする者たちからの、あらゆる、モノ」
「そんなふうに自分を考えるな」
ファバルはつい言っていた。
「ちがう。あんたは被害者だ。そうやって、あんたをつうじて何かを手に入れようとしていたやつらに利用された被害者だよ」
「でも」
まだ何かいいたそうなイシュタルの口を、ファバルはまた言葉で塞ぐ。
「イシュタル」
「…はい」
「あんた、ユリウスと寝てて、幸せだったか?」
「…」
イシユタルは、しばらく黙った。
「幸せだった時も、あった。いつのまにか、恐くなった。母上は、障りのない時ならいつもお側にいろとおっしゃっていた」
泣きそうになっているのか、ふとんに半ば顔を埋めて、震えている。
「辛いことだったな。ごめん」
「…ファバルは」
だが、すぐ顔を出して、訪ねてくる。
「『しょうふ』とは、寝たの?」
「え?」
「教えなさい」
ファバルは純然と興味で聞いてくる質問にどきまぎした。
「…ある」
「いつ?」
「少し前だよ。まだ傭兵をやっていた時、仲間に誘われて」
「…そう」
「で、でもな、イシュタル」
とげの隠ったような彼女のあいづちに、ファバルは慌てて
「そう言うことは、三回、いままで三回しかないんだ!」
と付け足した。
「え」
「ほんとだよ」
イシュタルはくすくすくす、と笑いはじめる。
「な、何がおかしいよ、すまねぇな、『素人』同然で」
「…そんなことは言ってない」
イシュタルは笑いをやめて言った。
「恥ずかしいことを聞いてしまったのね」
「…」
「ごめんなさい。
 …私、お前となら、こうしているだけでも幸せよ」
イシュタルは、それだけ言って、眠るように仰向けになった。
「…おやすみなさい」
「…」
ファバルは、目を閉じていたイシュタルの、端正な横顔を見ていた。が、思い立って、その身に手をまわす。
「?」
イシュタルは薄く目をあける。ファバルの顔がまじかに迫っている。
「もすこし、幸せにならねぇか?」


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